会長挨拶

第63期会長就任にあたり

第63期会長 大須賀 公一(大阪大学)

このたび第63期会長を拝命いたしました。どうぞよろしくお願い申し上げます。歴代の会長も会長就任挨拶で書かれていますが、私も本学会には大変お世話になっております。そのお付き合いは、30年くらい前からになりましょうか、「学会」に対する大きな憧れと大いなるワクワク感をもって、研究成果を聴講したり発表したりすることから始まりました。その後、年齢を重ねるに従って、講演会などへの参加や研究発表のみならず、学会の運営のお手伝いをするようになり、現在に至っております。

そんな中、ご承知のように、現在学会を囲む周辺状況は様々です。社会的な動きとしては、Society5.0やAIなどが大きな流れを生んでおります。一方で、大学に対しては運営費交付金の削減によって、すぐに成果が得られるプロジェクト研究をせざるを得なくなり、長期的な基礎研究がやりにくくなってきています。また、多くの学会では会員の減少が見られ、全体的に学会離れが進んでいるように見えます。

これらの状況を踏まえますと、私達がすべきことは、(1)国際化・グローバライゼーションなど、社会に開かれた学会を目指す、(2)会員になることのメリットが明確になるような企画を考える、(3)会員数倍増化計画立案、などとなるのかもしれません。しかしながらこれらは、一会員である私からすると、とても違和感を覚えます。すなわち、一人の会員からすれば、会員数が増えようが減ろうが関係ないことです。また、学会が国際的であろうがなかろうがどうでもいいことです。自分が国際的であればいいだけです。そうだとすると、「学会」の存在意義はどこにあるのでしょう、あるいは、そもそも学会とは何なのでしょう?

その答えを求めるために古代ギリシャ時代にまで時をさかのぼってみましょう。現代では、私達「スカラー(scholar)」は「学者」と呼ばれていますが、当時、スカラーは「暇人」を意味しており、そしてスカラーがあつまったところを「学校(school)」と呼んでいました。また、プラトンの著書「饗宴(symposium)」では、みんなが集まって夕食をとり、酒を酌みながら、何か一つのテーマを皆で語りあう様子が描かれています。ここでシンポジウム(symposium)というのは、「酒を飲み交わす」という意味で使われています。このようなことを総合すると、学会あるいはアカデミアとは、「暇人が集まって興味ある学問をあれこれ語り合って、時には一緒に酒を飲んで、とことん楽しむこと、あるいはそのような場である」ということになります。

そうだとすると、先ほどの(1)(2)(3)の目標は些か皮相的すぎるように思えます。思い出して見ると、私がなぜ学会に参加するのかというと、「あそこに行くと何やら楽しそうで知的好奇心が満たされそう」に思えるからであって、「会員数が多いから」とか「会員になると何か特典があるから」ではないはずです。私が日本哲学会の会員になったり、日本古生物学会に参加したりするのは、とにかくそこに見え隠れする学問を味わいたくて楽しそうだからであって、それ以外の理由はありません。

このようなことを考えると、私達がすべきことは「学術的香りがプンプンしつつワクワクして参加したくてたまらなくなる学会を目指す」ということです。そうしますと、結果として会員も増えるでしょうし、国際化も活発になってくるのだと思います。もちろん、様々な大人の事情があり、なかなか理想どおりにコトは進まないのは重々承知しておりますが、それでも、あえて思い出すべき初心だと確信しています。最もしてはいけないのは、組織の保身、すなわち、組織を守ろうとする心を最優先に考えることで、これは本末転倒な行為だと思います。一旦組織ができると、そこには元来存在しないはずの見えない壁ができ、これが組織を硬直させる大きな要因になります。逆に、努力すべきことを一つ挙げるならば、それは「その学術的分野の面白さを広くアピールすること」だと思います。ある研究領域が成熟してくると、当該分野にいる人々はその分野の面白さが当たり前になってきて、自分以外に面白さを発信することを忘れてしまうことがあります。そういう意味で、常にVisibility(見えること)を心がけることは大切だと思います。

以上、このたびシステム制御情報学会の会長に就任いたしまして、強く思いますことは、色々な人から「アイサイは(今時珍しく)面白そうに学問しているね、是非参加したい!」と思われる学会にしたいということです。実は本学会は、伝統的にそのようなマインドをもっています。その精神を受け継ぎ、さらに深掘りしたいと思います。そのためには、自分自身、あるいは会員の皆様ご自身が楽しいと思う学問をどんどん進めていき、コトある毎に「饗宴」を開き、自由闊達に議論できる場を構築することが大切になります。そんな場こそが学会ではないでしょうか。それが結果的に本学会をより発展させることにつながるのだと確信しています。ぜひそのようなことを目指して一緒に楽しく学問しましょう!

そもそも学会とは?

第63期会長 大須賀 公一(大阪大学)

本稿は、「学会とは」について考察した概要です。以下では、この問いに対して答える際のコア概念になる「学問」について考えることになるのですが、その前にまず、なぜ「学問とは」という問題を今ここで考えようと思ったのか、について説明し、そのあと、「学問」について考察します。そして、それらをもとに「学会」について考えてみます。

1.なぜ「学問とは」を今の時期に考えるのか。

昨今、多くの学会でその役割(あるいはすべきこと)として強調しているのは、(1)国際化・グローバライゼーション・持続可能な社会、などが実現する社会に開かれた学会を目指す、(2)会員になることのメリットが明確になるような企画を考える、(3)会員数倍増化計画立案、などではないでしょうか。これらは学会の外を意識した活動目標になっていて、そのために学会では、様々な委員会やワーキング等をつくり、様々な提案を考えるのに大忙しです。もちろん、いずれも大切な課題であることは間違いないですが、これらに意識を向けすぎることは、学会本来の「学術団体」としての存在価値を小さくすることにつながりかねません(「学会とは」については3で述べます)。学会が「学会」を維持するために、学会が最優先に掲げて表明すべき目標は、「学問をする」に置かねばなりません(「学問とは」については2で述べます)。もちろん学会に関わる人々の頭の中には「学会とは学問をする場である」ということは常識として内在しています。ですから、学会が上のような社会貢献を考えるときも、「学会とは学問をする場であって、その上に上述のような貢献を目指すのだ」として行動しているのだと思います。ところが、学会活動を語る際、学問をするということは強調しないことが多いのではないでしょうか(我々からすると当たり前すぎるので)。しかしながら、「学会とは学問をする場である」ということを学会内部からあえて発信しないでいると、学会の外からみると、その心は見えなくなり、たんに社会のために色々と考えてくれている組織としか見えなくなってきます。数十年前の学会は(おそらく)「学問の場」という存在を外に対しても主張していたと思いますが、どうも最近は外向けの顔をよくすることに目が行きすぎて、足下が危うくなって来ているように思えます。

そこで、今の時代だからこそ、自戒の念を込めて、あえて「学会とは学問をする場である」という当たり前をあえて声にする意味があるものと考えます。そしてそうであるからこそ、学会が本質的に目指すものを明確化するためには、いまここでもう一度「学問」を再認識しておくべきだと思うに至りました。

2.「学問」とは

では、1で浮上させた「学問とは?」という問いをあらためて考えてみましょう。

よく「学問とは真理の探究である」と言われますが、そこから吟味してみます。おそらくこの表現そのものは非常にシンプルで的確だと思いますが、ポイントは「真理とは」にあるのだと思われます。もちろん、この文章の奧には(何かを)「納得したい」という動機(ある種の向上心、欲求なのかも知れません)が内在していることは言うまでもありません。

さて、普通、真理というのは、なにやら(主観とは独立に)客観的に唯一絶対的な存在物として存在していて、我々は理性によってその真理へと近づくことができる、と考えることが多いと思います。しかし、いわゆる客観的かつ唯一絶対的存在としての真理というものは考えられないことが、ちょっと深く考えるとすぐにわかります。あるいは、たとえそのようなものが存在していたとしても、我々人間はその存在に触れることができません。なぜなら、我々は認識の部屋の中に閉じ込められていて、決してその外に出ることはできないからです。数学などには真理が存在するように見えますが、これは「公理」という約束を構成し、その上に構築された世界なので、その公理系に照らし合わせることによる真理は存在します。ただ、それは素朴に私達が直感的に存在を感じている(絶対的な)真理とは異なるものです。

では、この世は相対論的なので、みんな勝手な思い込みで世界を理解し(独我論的世界観)、その中で各々独立に生きていくしかないのか、というとそうではないでしょう。またそれで私達は満足することはありません。皆と語り合い、お互いの考えの共通性や相違性を確認しあい、みなで妥当性を共有しようと試みます。このような考察を踏まえて、真理をもう一度定めてみると「私達が素朴に客観的真理だと思っていることは、実は主観的産物で、みんなが納得しあえる妥当な概念のことである」となるでしょう。

以上に鑑みて「学問」を表現してみると、「学問とは客観的唯一絶対的真理を探究する行為である」ではなく、「学問とは、ある事柄に対して、根拠を示すことによって同意を獲得しようとする営み(言語ゲーム)である」となります。ここで注意すべきは、「学問する」という行為においては、ある事柄(問いに対する答え(判断)など)を導くとき、単なる思いつきなどではなく、ちゃんとそう考える根拠を自ら洞察して、それらを他者に示さなくてはなりません。それを受け取った他者はやはり自ら考察して、その考えに納得するとかしないとかを明確にすることが大切になります。そうやって、お互いの共有部分(あるいは相違点)を確信していくこと(行為)が学問である、ということになろうかと思います。こう考えると、「学問は一人ではできない」という大切なことがわかります。

*本章の内容は、西研:哲学的思考―フッサール現象学の確信,筑摩書房(2005)などを参考にしました。

3.「学会」とは

ということで、最後に「学会とは?」について考えてみましょう。

そもそも「学会」というのは、古代ギリシャ時代にプラトンが作った「アカデメイア」を起源にもつものではないでしょうか。ご承知のように、アカデメイアは、学問を純粋に志す人々が自由闊達に議論できる「場」として作られました。そうだとすると、この流れを汲む学会とは、次の様なものだと理解することができます。すなわち、「学会とは、ある学問を語り合いたい人々が集まって、学問・議論が自由闊達にできる場である」と。 非常に単純で、それ以上でも以下でもなく、もちろん何かの特権を持っているものでもないと思っています。ですから、そこには年齢、性別、身分や国籍などは関係ありません。著名な先生であろうが学生であろうが、学問を議論することにおいては平等だと思います。逆に、学問以外のファクターを絡ませると余計な色眼鏡(バイアス)がかけられることになり、純粋に学問しようとする目を曇らせてしまいます。そして最悪、何の集まりかわからなくなってきます。言ってみれば、学会というのは、いわゆる(いい意味で)「愛好家の集まり」なのだと思います。この点(お互いに「学問」以外に何の束縛も受けないという性質)が、同じようにアカデメイアに起源をもち一見似た組織に見える大学との大きな差であり、学会が存在する意義だと考えます。

日本古生物学会の前田春良元会長は、日本古生物学会第167回例会(2018)における会長講演の最後に「露頭の前では平等である」と締めくくられました。すなわち、化石を発見して考古学(古生物学)に貢献するのは、子供であろうが大人であろうが大御所の先生であろうが素人であろうがそんなことは関係ない、みんな平等にチャンスはあるのだという意味です。素晴らしい言葉です。

4.まとめ

このように、色々と考えた結果、学会の本質は、「学問を平等に語り合う場である」ということに尽きると確信するに至りました。これが、システム制御情報学会の会長就任挨拶(システム/制御/情報,Vol.63, No.7,p.263,2019)を踏まえた上での、私の考える「学会像」です。

さらに、本稿で考察した、学会が抱えているように見える問題は「考える課題の順序が逆なっている」ところにあることに気付きます。すなわち、本来は、『方向1:まず学問を究めたい、そのためにやりやすい組織を考える、その結果こんな波及効果が期待できます。だからみなさん「一緒に学問を究めましょう」』とすべきところを、昨今の学会は、『方向2:こんな波及効果を目指します、そのためにこんな組織をつくります、すると学問ができます。だからみなさんこの波及効果を実現する方法を考えましょう』としているかのように見えます。これでは本末転倒になってしまいます。私達「学会人」は「方向1」をもっと意識して(何度も言いますが、内部的には意識しているのは明らかですが)、それを外にあらためて発信すべきだと確信します。

1でも書きましたが、ここで述べていることは当たり前のことで、何を今更という類いのものでしょう。でも、「初心」として常に私達の心の中に留めておくべき心構えだと思い、あえて文章にしてみました。

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